村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
高校教育制度の改変をめざして
村上中正氏の1971年試論では、
山城高校での聴覚障害者の教育保障、という新しい高校教育制度から高校教育そのものの改変を示唆しているのだが、この部分は充分説明し切れていないように思える。
村上中正氏の山城高校での教育実践の20日間という月日。教育実践的回答を引き出すのは無理がある。
それゆえ教育理念先行になるのはやむを得ないことかも知れないが、いくつもの論理の飛躍があり、それを埋められていないのはこの「試論」の範囲で求められない。
高校全入運動
高等学校へ希望者が全員入学できるようにとする
選抜試験。普通科や商業科等、そして全日制と定時個などの差別や選別の矛盾と対しながら、聴覚障害者の教育保障が、「高校生の中に一人の落伍者も出さない」という集団主義と個々の発達保障を統一した真の高校制度をうちたてていくことに結びついたとりくみの中で、高校全入の課題として位置づいてくる。
高校全入の課題、とは1960年代頃から活発に行なわれた「高校入学希望者の全員入学」、いわゆる「高校全入」ということだろう。
戦後、教育制度改革にともなう新制高等学校へ希望者が全員入学できるようにとする取り組みのことを意味する。
国際教育動向と結びついた
「義務教育の延長」としての「高校全入」であったが
現代では、この考えはとうてい理解しがたいことと思われるが、当時の国際的動向動向や高校への進学増加にともなう「義務教育の延長」としての「高校全入」は日本の教育の重大な課題となった時期がある。
すべての人々が高等学校教育を
そこに障害者教育を考えて
この「高校全入」は、高等学校教師のなかでも受けとめられていた。だが、高校全入の課題の中に障害者教育が位置づけられ、考えられていなかったことへ村上中正氏は警鐘を乱打していたようである。
とくに「就学猶予免除」の名のもとに学校すらいけない「重度障害者教育」の保障は、日本の教育の前提に関わるとして教育保障、学校建設をすすめるべきだとする激しい運動がおこなわれたが、その運動の先頭に村上中正氏の名前がある。
「すべての子どもに教育」を保障する
そのなかでの高校全員入学
社会的に「このような重度の子どもの教育は出来ない」とされていた中で、京都はその先鞭を付けて「すべての子どもに教育」を保障することが一定程度実現していた。村上中正氏は、この取り組みの中心的人物であったが故に「高校全入」には障害者が当然含まれていると考えていた。
だが、具体的にどのように教育をすすめるのかの実践的解明がすすんでいない状況に直面しながら、敢えて基本を踏まえて「集団主義と個々の発達保障を統一した真の高校制度をうちたてていくことに結びついたとりくみ」をキーワードとして述べたのではないだろうか。
多様化に多様化を重ねた今日の高校教育制度からは、理解しがたいことであるが。と書かれている。