村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
村上中正氏の1971年試論は、
村上中正氏の「試論」の前提には、当時の教育基本法、特に教育諸制度や教育保障と関わって 教育基本法第10条(教育行政) 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。が基礎とされているので注視しておく必要がある。
特に、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきもの」「教育行政は、‥‥‥教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」の理解は「試論」の言及を理解するための基礎的知識であった。
聴覚保障、発達保障の展望をもたず
ろう学校教育の現状と展望に対する追究の弱さを反映
村上中正氏は、京都市教育委員会が、1966年度に京都市市立出水小学校に難聴学級を開設したこと、1968年度に京都市市立二条中学校に開設された難聴学級ことを
正しい聴覚保障、発達保障の展望をもたず、また一方では、聾学校教育の現状と展望に対する追究の弱さを反映したものとする。
「難聴」を聴覚障害者集団からひき離す道をたどる
これらの難聴学級は、聾学校教育の歴史的教訓として発展分化したものではなく「難聴」を聴覚障害者集団からひき離す道をたどるおそれをもつものであった、と断定する。
教育に対する行政の干渉を認めず国民に責任を負う教育と難聴学級とろう学校を切り離すことを熟慮して「難聴を聴覚障害者集団からひき離す道」ではないかと提示。
インテグレーションやさまざまに解釈され
理解されてきた聴覚障害者の教育でない道
ここに、村上中正氏は、インテグレーションやさまざまに解釈され理解されてきた聴覚障害者の教育でない道を打ち出していくのであるが。
ろう学校での教育と難聴学校の教育がともすれば対立的にとらえられていた時代。
村上中正氏はろう学校とか難聴学級とかの教育形態にたいする教育形態論ではなく、難聴者とろう者、ろうあ者をも包括して社会の中で学び、生きることを思考したのであろう。
社会全容の中で、難聴やろうという関係を超越して把握し、教育の本質に迫る展望故に今日まで理解出来る人が居なかった、少なかった、のではなかろうか。
それ故に、村上中正氏の「試論」は貴重で示唆に富みすぎ理解しがたい領域であったのではないか。