手話 と 手話通訳

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インテグレーションでない 日本の高等学校の教育の「転機」

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           村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

日本の高等学校の教育の「転機」

 

   村上中正氏の1971年試論は、

 

 1971年、京都府教育委員会聴覚障害児15歳、高校入学を認める方向で大きな転機を迎えていた。これは、日本の高等学校での教育にとっても「転機」の時期であった。

 当時、日本の教育では乳幼児期から思春期までのそれなりの教育対応、制度的援助は脆弱であるが存在していた。 その評価基準を行財政の援助制度では、高等学校教育ー後期中等教育は「法・施行上」の文言はあっても行財政的援助はまったくなかった。

 

  15歳の春は教育対象外

 

 未就学の障害児が学校教育を受けられるようになっても15歳の春は、教育対象外とされる行財政制度及び教育制度があった。村上中正氏はこの現実に対して、いま京都府における公立高校で聴覚障害生徒の教育保障の方向が始まろうとする時点で、この問題にかかわる教訓をひきだし、将来の道すじについての意見を提起する。これらは、私が参加するいくつもの集団の中で日常的に討議されてきた内容を基礎にして、集約したものである。
  なお、ここでは学校教育における発達保障の面から述ぺるにとどめた、したがって、連動論の観点からの総括と展望については、この運動の中心になった「聴覚障害児の教育を保障する会」の集団討議を経て、報告と提起をおこなうことになろう。と問題を投げかける。

 

   「無策」に楔を打ち込む

 

  1970年に至るまでも、今日でも後期中等教育としての高等学校の障害者とともに学ぶ体制は不充分すぎるものがあるだろう。

 

 高等教育としての大学等の条件整備がすすんでいる反面、教育制度全体の中で高等学校での障害者と学ぶための条件整備は、遅れに遅れている。

 

 この背景には、教育条件整備の責任を持つ行政、教育行政の側が「義務教育でないから対策を講じなくてもいい」とする無策があるだろう。

 

 1970年、村上中正氏らはこの「無策」に楔を打ち込んだのである。