村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
村上中正氏の1971年試論は、
聴覚障害者集団の力に
かぎりない信頼を寄せた教育
ろう学校の教師としても、聴覚障害者集団の力に限りない信頼を寄せて、その立場からろう学校教育や難聴学級教育をも論じている。当時のろう学校の教師でこのような立場から教育を述べているのは稀有であると考えられる。
「手話を忘れた聴覚障害者にならないように」
という文は意味深長な提起である。同時にこの時期でも、ろう学校で手話が認められていなかったという事は無いのである。
それぞれの生徒に合った教育の場
教育の基本、前提が徹底討論されて
教師の側から「手話を忘れた聴覚障害者にならないように」とろう学校で徹底討論されていた事実も着目しておくべきだろう。
次にろう学校中学部で徹底討論された八項目について考察する。
○それぞれの生徒に合った教育の場が保障されるべきであること。
現代より先んじてと解説すると事実に反するだろう。
戦後の日本の教育実践の分野では、一斉、画一、押しつけなどの教育が多く見られたが、そうではなく「それぞれの生徒に合った教育の場が保障」されててはいない。それを再確認しながらより「それぞれの生徒に合った教育」を追求しようというものであり、そのような教育実践がされるべきであると討論された。
このように考えると、2020年代の教育が、1968年の頃より「それぞれの生徒に合った教育の場が保障」されているかどうかが問われる。
教育の基本、前提が徹底討論されていたと考えられる。
と書かれている。
教師が集まり、それぞれの立場や意見を尊重しながらも、討論し合いながら共通項目を見出す、このなかに「それぞれの生徒に合った教育」の源流を想起する。
教師たちが、「それぞれの生徒に合った教育」を口にするのはやさしいだろう。だが、教師自らが、それぞに合った意見を出しているかと考えればそれを肯定できない現実があるのではないか。
教職員が第三者委員会にゆだねないで
当事者が徹底討論することを痛感させたこと
教育を評論する人々の多くは、この教師の「それぞれの立場や意見を尊重しながらも、討論し合いながら共通項目を見出す」ことの大切さを認識しているようには思えない。
学校で、問題が生じればすぐ、第三者委員会云々となり、教職員などの当事者は埒外の置かれていないだろうか。
京都ろう学校授業拒否事件の多くの資料を読むと、村上中正氏らは当事者として「教師が集まり、それぞれの立場や意見を尊重しながらも、討論し合いながら共通項目を見出す」ことを痛感し、それを実施したと思える。