手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろう学校の思春期の子どもたちに「波を形成し、強弱、動静、注目、まとめなどを視覚的」に授業

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           村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

 村上中正氏の1971年試論の探求は、次のように述べる。

 

教職員を監視し分断する教育委員会 その嵐の中で

 

 特に、今日では知られるようになった1965年の京都府立ろう学校授業拒否事件では、教職員組合のろう学校分会長(注 村上中正氏)だった。そのため問題を真摯に受けとめ行動した。
 だが、分会は生徒の立場に立ち過ぎている、教職員の立場から逸脱していると集中的に批判が浴びせかけられ続けた。なにもかもがあなたが悪いのだという屈辱的な罵倒にも耐えながらろう学校教職員が一致して教育に取り組みようあらゆる努力を試みたが、当時の京都府教育委員会の一部の指示により教職員の分断、対立が一層拡大した。

 教育委員会は、村上中正氏らを敵視し、彼の行動を逐一教育委員会に報告するよう数名の教師と連絡を密にした。それらは後に明るみになるが、村上中正氏はそれらの教師を批判するようなことはしなかった。

 この頃のことを教育をすすめるうえで教職員の意見の違いを了承しながら、一致点を拡げ教育をより実りのあるものにすることなど多くを学んだと後々に語っている。
 またろう教育のみならず、当時特殊教育といわれその名称に離反した教育や諸待遇が行なわれていること改めさせ「すべての子どもに等しく教育を」と京都の教育の充実、特に障害児教育の保障と実践のために行動し、多くの教育保障を勝ち取る先頭に立たれたことでも有名である。

 

ろう学校の授業時間
 授業に波を形成し

 強弱、動静、注目、まとめなどを視覚的展開

 

 村上中正氏の聾学校中学部での授業実践は、極めて卓越したものであった。生徒たちのひとり一人の状況を把握し、授業開始から終了までの間、いくつもの課題と興味を生徒に与えて理解を広めるなど、ろう学校教育実践の先駆者であり、牽引者でもあった。絶えず授業に波を形成し、強弱、動静、注目、まとめなどを視覚的展開を重視していた。

 

 ろう学校の教育について多くの文献がある。しかし、授業という空間の出来事は時とともに消え記録されるものではない。よく自分の授業として披露する教師がいるが、それは披露することを目的に記録されたと考えられることが多く「虚の世界」ではなかろうか。

 

  思春期の子どもたちの授業の教え

 

 目の前の子どもたちの授業。その展開は、自分を客観視することに重きを置いたままではその授業は空洞化すると考えられる。

 

 村上中正氏の1971年試論の探求では、村上中正氏の展開した授業を

 

 絶えず授業に波を形成し、強弱、動静、注目、まとめなどを視覚的展開を重視していた

 

と述べているが、それは村上中正氏の授業を目の当たりにしないことには、述べることの出来ない事ではないのかと考える。

 

 ろう学校、思春期の子どもたちに「波を形成し、強弱、動静、注目、まとめなどを視覚的展開」した授業を展開したことは、子どもたちが授業内容の世界に存在したことが推定される。

 

 ろう学校の授業は、手話を使えばそれでいいという単純思考でない記述であることが読める。