手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

九歳の壁 と言うことで「人間の壁」がつくられている

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      村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

  聴覚障害者のことを知り抜いたからこそ
    タブーをつくらない

 

 以下の村上中正氏の1971年試論の探求は、聴覚障害者のことを知り抜いたからこそ明らかに出来ることであり、考えなければならないことかも知れない。

 

 ある意味、タブーにされている領域に踏み込んで教育方途を描いていることは、真理、真実に忠実である証でもあるかも知れない。

 

内面的に聴覚障害があることが認めたくない
 自分が聞こえていたらもっとエリートの路を歩む

 

ー (自分が聴覚障害があると知り、それを)考えはじめる時期が、20歳以降になると「表面的聴覚理解」だが「内面的に聴覚障害があることが認めたくない」「自分が聞こえていたらもっとエリートの路を歩む深層を持ちながら相反することを表出する」そのことはかえって苦しくなることなのに、多くの聴覚障害者と交流することに一線を画してしまっているように思える。
 みんな仲間じゃないの、と言うと「肯定した返事」が返ってくるが、「みんな」と「距離を置く」。 ー

 

聴覚障害者のみんなと言うが
 自分はそこに存在していない

 

 エリート意識の表裏を捉えることでインテグレーションした生徒の哀しみと複雑な心境をとらえ、聴覚障害者の問題は、表層だけの理解で終始してはならないとも警告しているようにも受け止められる部分である。

 

 みんな聴覚障害者で、との問題についても肯定しながら「距離を置く」というのは極めて微妙な提起だろう。

 

 聴覚障害者であると言いながら、自分は聴覚障害者でないと思い続けている人間に何を見いだせばいいのか、筆者はまだ述べていない。

 

ー 「9歳の壁」と言う人は、ことばや文字や学習の「壁」を言うが、人間性の「壁」がつくられていることを観ていないのではないか。
 学び育つ、のではなく、学び学びで育ってきた聴覚障害者に「人間的脆さ」を感じることが多い。
 もちろん、過去のことは過去において、今共に生きる聴覚障害者として共に生きて行きたいのだが。 ー

 

九歳の壁ということで
   「人間の壁」がつくられている
 

 「9歳の壁」と言う人は、つくられた人間性の「壁」をみていないとは、従来の九歳の壁を論じてきた多くの人々にはみられない思考だろう。

 

 つくられた九歳の壁から、九歳の壁ということで「人間の壁」がつくられているというのは深刻な指摘だろう。

 

 人間を機械的分類する弊害をリアルにしているが、では、つくられた「人間の壁」は「克服できない」のだろうかという問題に出会う。