手話 と 手話通訳

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直視すべき インテグレーション で聴覚障害児・者の人生が分断され、区分され、優劣が加えられていたこと

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    村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

村上中正氏の1971年試論は、

 

自分の原稿をみんなで意見交換して
  書きなおしたものは「みんなの文」

 

 村上中正氏はろう学校の教師としても、障害児や全体を考え社会的提起を行なった立場から、インテグレーションの一つの断面を考えるだけでも聴覚障害児・者の人生が分断され、区分され、優劣が加えられていたことを直視しなければならないと考えたようである。
 氏の発想や方向は、決してその場の思いつきではなく熟慮した上で提起であることは、多くの同僚たちが証言していた。

 全国障害者問題研究会や全国手話通訳問題研究会などの発足やその後には、村上中正氏の構想が織り込まれているがそれを知る人はいないのではないかとも思われる。
 1960年代から1970年代について村上中正氏が書いたとされる文献を調べてると、氏の個人名は見当たらない
 氏の以下の文でも推定されるが、彼は自分の原稿をみんなで意見交換して書きなおしたものは、「みんなの文」であるという立場を貫いたとのこと。
 他の人は、村上中正氏の論文というものでも論文の上に氏の名前は記されていない。

 

みなの思いをひとつの文にする

 

 文を書いた文に氏の名前が記されていないのなら、氏の論文でないと言いきるのは簡単であるが、記されていなくても氏の論文でもあるとすべきであろう。
 村上中正氏と同時代、自分が書いてもいないか、わずかしか書いていないにも関わらず自分の文章であるとする厚顔無恥な人びとが登場するが、それらの人への批判はほとんど無いのではないだろうか。

 ろう教育分野などでは、その問題を知る機会が多い。
 なぜ、氏が個人名の論文や文を出さなかったのかを探索すると、個人と集団ということに繋がる。
 自分の主張を貫くだけではなく、多くの人々に意見を求めみなの思いをひとつの文にする作業は大変である。が、彼はそれを厭わなかった。

 

教育は個人で出来るものではない
 教育を個人のレベルで考えることは大切
 だが個人のレベルだけでない

 

 教育を論じる場合でも、教育は個人で出来るものではなく教師たち=教師集団、生徒たち=生徒集団、生徒の親たち=親集団と考え、個々の教育課題はあっても、教育を個人のレベルで考えることは大切だが、個人のレベルだけでないとした。

 村上中正氏が、ろう教育や難聴教育などを包括した聴覚障害者教育という概念を打ち出したのは、インテグレーションの一つの断面を述べてきたことに由来するのではなく、それらを含めたすべてを見通した概念である。

 

 氏は、未就学の障害児の問題を考えるだけでなく未就学の子どもたちが教育を受けられるようにするため全国発信を行なっているが、その発信を読んでも彼が社会の中の障害者の状況を遍く知ったうえで発信している。

 日本の社会状況を充分踏まえた上での聴覚障害者教育という概念である。 村上中正氏が数多く書いたとされる文章の中でも、氏自身の名前で公表した文章は少ない。自分の名前を出して公表した文章は、氏自身の提起であり、反対意見も含めて多くの考えを出し合い、ひとつのまとまった流れを形成するための一石を投じたものであろう。このことも踏まえ順次解明して行きたい。

 

  インテグレーションなどをすべて見通した教育概念

 

  村上中正氏が、インテグレーションを批判するのも、批判できるのも、インテグレーションなどをすべて見通した教育概念。

 

 難解な提起であるようで理解出来る問題ではないだろうか。

 

個人のレベルを超えた人間関係性の中で教育を論じる

 

 教育を個人のレベルで論じることは容易。では、個人のレベルを超えた人間関係性の中で教育を論じることは容易ではない。

 

 あえてこの課題に挑戦したのが、村上中正氏の1971年試論であると言えるかもしれない。