村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
村上中正氏の1971年試論の子どもの声が聞きたいという「全聾」とされている親の要求に応える、部分について当時の記録や証言から具体的意味するものを考えてみた。
村上中正氏が、成人した聴覚障害者の人々と数多くの相談、問題解決のために行動していたことは事実のようである。
学校教育すら受けたこともなく
ひたすら働き命を終える生活を過ごして
1960年代以前の聴覚障害者の人々の多くは、学校教育すら受けたこともなくひたすら働き命を終える生活を過ごしていたとされている。
現代社会では、理解しがたい現実も数多くあったようであるが、それらは生き続ける人々へのエールとして記録されていない。従って文に折り重ねられた意味合いから推定するしかない。
聞えないという自分を
産んだ親を恨みぬいてきた
信頼を得ていた村上中正氏に聴覚障害者の少なくない人々は、自分たちと同じ苦しいめに会わないためにぜひ、次の世代に伝えて欲しいと言われたことについては記録がある。
優生保護法の名のもとの断種についても非人道的なこととして絶対許すべきでないとして、多くの人々と論議をしてまとめ、京都府に迫った文も残されている。
その中のひとつに記述されているのが、「全聾」とされている親の要求に応える、にはどうすればいいのかという記述である。
現代では、さまざまに表現されているが、当時の記録ではろうあ者夫婦が、村上中正氏を尋ねてきたと記されている。
ろうあ者夫婦は、聞えないということについて自分を産んだ親を恨みぬいてきた。
親を恨むことが、「生きがいだった」ことも
恨むことが、「生きがいだった」こともあるかもしれない。
だが、自分たちにも子どもが授かった。子どもを産む前、産むとき、産んでからどれだけ多くの人々の助けを受けたことか。
自分たちが親を恨んだように
自分の子どもも自分たちを恨むようになる
でも、赤ちゃんが授かって、ふと、気がついたことがある。
赤ちゃんは、聞えるらしい。
すると、自分たちが親を恨んだように自分の子どもも自分たちを恨むようになるのではないかと不安で居たたまれない。
どのようにしたらいいのか。
との相談だった。
村上中正氏は、ろうあ者夫婦の聞える子どもがどのように親とともに育ったのか多くの例をあげて説明をした。
すると、ろうあ者夫婦が
「自分たちは聞くことをあきらめていた。」
「ぜひ、自分たちの赤ちゃんの声が聞きたい。聴かせて欲しい。」
と懇願された。
赤ちゃんの声が聞きたい
聴かせて欲しいのねがい
村上中正氏は、そのねがいに応えてあらゆる聴覚機器を使って、赤ちゃんの声をろうあ者夫婦に聞かせようとした。
いろいろ試しても、反応がなかったが京都府立山城高等学校のオーダーメイドの聴覚機器を使って、赤ちゃんの声をろうあ者夫婦に聞かせたところ、ろうあ者夫婦の顔がぱっと明るくなって涙がこぼれたとのこと。
聞こうとすることをあきらめていたが、聞くことの喜びと同時に自分たちのそれまでの人生に新しい活路を見出したようであると記されている。
はなしは、これで終わったわけではない。
が、このことから村上中正氏は聴覚への可能性を無視されてきた障害者にとっても、たとえば「私の息子の声が聞きたい」という要求があり、たとえ歪んだ音ではあってもそれを最大限に増巾して耳に響かせることを保障することによって応えていかねばならないように、さまざまな音響の感知をまで保障していく、ことを説いているように思われる。